ここのところ毎日のように
夜になるとウイスキーを飲りながらビートルズを聴いている。
まったくランダムにあれこれ聴いているのだけれど、
どーも耳に引っかかってくるのがこの曲だ。
ジョンの曲なら他にももっと有名な曲、好きな曲はたくさんある。
イン・マイ・ライフ/ジョージ・マーティンのピアノを聴くたび震えがくる。
ストロベリーフィールズ・フォーエバー/この時のジョンの心情が染みてくるのだ。
アクロス・ザ・ユニバース/フェバリットだね。最近のF・アップルのカバーもよし。
その他いくらでも出てくる。
しかし何故この曲が頭に残るのだろう。
前記の名曲に隠れてあまり表立つことのない曲なんだけど、
昔から妙に好きな曲なのだ。
最初にこの曲が流れた瞬間、アタマの
「Is there anybody going to listen to my story,
All about the girl who came to stay,」
って歌詞を、頭で考えるより先に口ずさんでしまった。
もう何年も聴いていないようなこの曲の歌詞をだ。
それで思い出したんだが小学生の頃、
まだビートルズを聴きはじめで、ポールもジョンも区別がつかなかったあの時、
繰り返し聴いていたのが、イエスタディでもなく、レット・イット・ビーでもなく、
このジョンの曲だったのだ。
なぜこの曲なのか?
思うにジョンの声。これに尽きると思う。
イントロなしでいきなりあのジョンのクセのある声が聞こえた瞬間、
まさに最初の1音が聞こえた瞬間にジョンの世界に包まれてしまうのだ。
唄のうまい、へたってんじゃなく、声そのものの魅力。
それも澄んだ声とか、きれいな声ではなく独特のクセのある声。
あれがたまらなくいいのである。
歌詞もいかにもジョン・レノンといった、
悪女にホレてしまった男のヒネリのあるラブソング。
このストレートじゃないとこが「らしく」ていいのだ。
ビートルズのデビューした‘63だか‘62(だっけ?)。
その当時のポピュラー・ミュージック・シーンは、
職業作家と職業歌手で作られた、単に甘いだけのラブソングばかりで
リアリティなどと言うものは微塵も感じられないものだった(ようだ)。
そこに「プリーズ・プリーズ・ミー」、「抱きしめたい」などと
タイトルからしてそのまんま、ど真ん中に豪速球を投げ込んだのが彼らだった。
自分らの唄いたい唄を自分で作って自分で唄うという、
今では当たり前のことを最初に成功させたのが彼らだったのだ。
渋谷陽一はライナーで「バラードは甘さではなく、美しいメロディでもなく、
ひとつの切実な思いである。」と書いていたが、
まさにその「切実な思い」に飢えていた所に、
何のためらいもなく、当事者としての生の声で登場したのである。
これは受けないはずがない。
どんな芸術、表現、とにかくものを創造することというのは、
ありのままの自分をさらけ出すことであると思う。
先ず自分がどう思ったか、どう感じたか。
そいつを素直にぶちまけること、それがパフォームすることだと思っている。
これは芸術家や表現者だけのことではなくて、
一般社会の生活者である我々も同じこと。
特に恋愛においては素の自分を出すことが
相手へのコミュニケートの第1次で、
そこからすべてが始まるんじゃないのかな?(当然出し方にもよるが。)
ありのままの自分をさらけ出すということは、
とても怖いことだけれどそれなしに前へ進むことは出来ないと思う。
受け取る側も相手のいい面、ごく一面だけを
自分の都合のいいように過大解釈するのではなく、
それらすべてを受け止めてはじめて感動が生まれるのではないか。
LIVEでの感動ってのも同じようにそこにある気がしてならない。
作家の松村雄策さんは私の小学生時代、こんなことを書いていた。
「僕たちは生まれたときは裸であったのだろう。
しかし生まれ落ちたその瞬間からものを着はじめた。
そして毎日毎日着はじめて、どんどん厚着になった。
それがいいことだと思っていたし、まわりももっと着なさいと囃し立てた。
でもビートルズは「もう着るのは止めよう」と登場し、
そこから「脱ぎなさい」と言っているのだ。」
(資料当たってないのでかなり不確か。)
最近夜中にビートルズを聴きながら、
彼らのデビュー当時生まれた私はそんなことを考えていました。
http:// www.youtube.com/ watch?v=ZshCZndWmco