[1] | イントロダクション | 1999/08/09 02:47 | |
最初にナマの落語に接したのはかれこれ15,6年前、19、20の頃。 ちょうど談志が落語協会を脱退して立川流を設立した直後の談志の独演会。 確か今も民音落語会で使っている中央会館だった。 演目は「金魚」だったかなぁ。 かなりナーバスな状態の時で、はっきり言ってメチャクチャでした。 しかし物凄くアナーキーでほとんどピストルズ以来の衝撃を受ける。(ちょっと言い過ぎ) ちょうどその頃ってROCKが一番パワーの無かった頃で、 まったく物足りなかったワタシはすぐに談志に飛びついた。 よって最初は落語というより談志個人に引かれたといっていいだろう。 (今でも半分はそうなんだけどさ) ちょうど思春期から青年期に移る頃だったのでこの影響は大きい。 幼年期を脱した私の人生観は、 山口瞳と談志によって決定されたといっても過言ではないだろう。 山口瞳の一番新しいアンソロジーで 勤め人ここが「心得違い」 / 小学館文庫 という、彼が生きていたら絶対付けないであろう題名の本の中に、 「私の先生」という随筆があるが、 ここでの志ん生のはなしが後に私の落語への傾倒に拍車をかける。 私の家は3代に渡る大工の家系で幼い頃より職人に接してきた影響も大きい。 あの江戸弁はガキの頃から聞きなれたリズム、そしてメロディである。 それに物心付いた頃にはじいさんは隠居していて 毎日着物姿で縁側で煙管を吸っていて、いま思うとその姿は志ん生そのもの。 その上言わずと知れた近所で評判のガンコじじい。 しかしこの手のタイプは概して孫にやさしく、彼も例外ではなかった。 廻りの人間には厄介者であるが私にとってはいいおじいちゃんで、 ほとんど会話した記憶はないのだけど、夏の日、ぶどう棚のしたの縁側で 浴衣着てコップ酒飲んでる彼の前で遊んでいた自分は今でも思い出せる。 よーするに演者として、パフォーマーとしての談志のキャラクターと 私の個人的なノスタルジィ、この2つが私を落語に引き付けるのである。 むろんはなしの内容、芸の完成度もしかりであるのだが、 少なくも切っ掛けとなったのはこの2点。 以来沢山のはなしを聴き、落語の深さに引かれて行くのであるが その経過はこのページで随時確認していこうと思う。 |
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