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こばやちくんの落語遍歴


平井落語研究会

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[5] 談志ひとり会/2000.1.11(TUE)国立演芸場〜同時代性について こばやち  2000/01/20 19:49
前座、文字助(立川流古参の弟子、もちろん真打)「雷電」、
そしてなんと円楽「こんにゃく問答」。
これにはみんなびっくりしていた。
しかし前回が志の輔だったりと、前座に実力者を持ってきている。
このあたりもなんか深読みしてしまう。
で、この日かろうじて「権ベイ狸」やったぐらいで後は話にならなかった。
風邪ひいているとかで、声はまだいいんだが集中できないとのこと。
仲入り後は西丸震哉・毒蝮三太夫・山藤章二を交えての座談会。
ここでいろいろ突っ込まれたりして、まぁおもしろかったと言えばおもしろかった。
(しかしいつもながら毒蝮の的を得ない話がおもしろい。すごいね。)
あと2回、3月のひとり会でとりあえず一旦止めるという。
体力的ってより気分の問題、あえて言えば情熱の問題かもしれない。
「人生成り行き」だから。

ここ数年、高座で「いい落語」、「そうでない落語」ってやつの基準が怪しいと言い続けてきた。
曰く文楽、円生を良しとする根拠など誰が決めたのだ、と自問自答していたのである。
芸術家であるから、常に完成したものを壊して前に進んでいくことは当たり前で、
そのところが他の落語家との大きな違いで、彼の魅力もそこにある。
そしてエンターティメントであるから当然時代の空気も敏感に嗅ぎ取って、話の中に注入する。
そうやって古典落語を現代に蘇生させるわけである。
彼もまた同じ時代を生きる人間であるから時代の苦悩も引き受けて話を構築して
いかなければならない。
この「いい落語」、「そうでない落語」ってやつは、
正にすべてのコトに対し「いい」「悪い」の基準が崩れてしまって
判断できない現代の波とリンクしている。
彼もまた探しているのである。

かつて海外では神の存在、日本では道徳性というバックグラウンドがその基準の
後盾であったのだが、そいつがなくなってすべてが自由になってしまい、
子供に小言が効かなくなってしまった。
学歴も肩書きもなんの意味のない虚像であることを
子供はみんなすでにお見通しなのである。
援助交際がなぜいけないのか説明できない。
そこで売春だからと言っても彼らに説得力を持たないのだ。
この基準の無い現代を語る時、かつての落語の基準で語っても伝わらないのである。

そして去年はガン騒動があった。
「死ぬことを考えることによって生がリアルに感じられる。」
「かつて戦争中は死が身近にあり、だからこそみんな生気に溢れていた。」
幾度となく高座で語っていたこの言葉から、
ワタシは鶴見済の「完全自殺マニュアル」を思い出さずにいられなかった。
ここでも時代とリンクしているのである。

古典落語だけでなく古典的、スタンダードな過去のいろんな表現。
たとえば印象派、たとえばビートルズ、すべて今でも通用するすばらしい芸術である。
しかし今、この時代をリアルに映し出す表現を同時代の今体験することの快感、
それにはかなわないと思う。
そしてその時代のリアルな表現こそがスタンダードになりゆくものであると思う。
過去からの借り物でなく今でしか有り得ない、今だからこそリアルなモノ。
そいつをずっと追いかけている。
そしていつの時代もそれが一番感じられるのがROCKである。
エレカシの「ガストロンジャー」、先日の東京ベイNKホールのNIN。
正に今の時代の気分を明確に現し、それゆえみんなで共有できた音でありLIVEであった。
「あっている」とか「間違っている」なんてどうでもいい。
「でたらめでもなんでもいいんだ」どれだけリアルに響くかなのである。

談志も音楽以外でそれを感じさせてくれる数少ない表現者であったのだが、
それゆえここでリタイヤされるのははとても寂しい。
しかし自分に忠実であることが彼の芸風。
観客は彼のドキュメントを楽しんでいるのである。
「人生成り行き」のその後を見守るしかないのだ。

rakugo@hirai.org